山形牧師の部屋 - 記事一覧
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2025.08.21 |
み声聴き み顔仰ぎて 主を愛す
![]() ![]() 昨晩は、Aさん宅での 「まきびと」の集いがありました。 毎月定期的にAさん宅で パンさき(聖餐式:胃ろうによって)と お祈りのときをもっています。
昨晩も、パンを溶かした液体と ブドウ液が それぞれシリンジを通して 胃ろうで Aさんはいただき キリストのからだにあずかり キリストの血にあずかる恵みを受けられました。
Aさんは 「日本で他に同じ症例がありません。」 (と、かつて東大医科学研究所から診断された) 病をかかえながらも それでも 日々、創造主に そのかけがえのない いのちを輝かせながら キリストのしもべとしての 日々を送られています。
東大医科学研究所の 人の言葉を借りるまでもなく Aさんに限らず 私たちは みんな神様の目から見ると 「同じ人はいない」ユニークな ひとりひとりですね。
連日、家に来るヘルパーさんに 聖書絵本を読んでいただくことを 通して間接的に 福音宣教のわざに たずさわっておられる そんなキリストの証人のAさんです。
Aさんは 今年の暑い釧路の日々も 熱中症や夏風邪からも守られて 先日は春採湖の湖水祭りにも 炎天下でしたが 行くことができました。 今年初めての、 戸外のイベントへの参加となりました。
Aさんのお母さまは いつも朗らかに Aさんに寄り添っておられ 栄養管理(胃ろう)や 吸引(痰)など 様々な面でAさんを サポートされています。
そのお母さまが 近々、1か月以上に及ぶ 入院手術を余儀なくされるとあって その間、Aさんのケアができなくなるので Aさんの看護、寄り添いサポート体制を どのように整えるか 現在模索中です。
具体的にAさんをサポートするためには 実にきめの細かいルーティーンを 欠かすことができません。
Aさんのお母様は 少なくとも6枚の用紙に 1日最低限 摂取させるべき 水分、薬、栄養分の種類と 分量を書き出され 医療職についておられた ご主人様に 伝授されています。
しかし
医療職の方でさえも それを一人で 担うのは3〜4日が 限度と言われます。
まして、教会の私たち仲間ができることは たかが知れています。
敢えて挙げるとすれば
祈って寄り添う 聴いて寄り添う
とは言ってもAさんは 声帯はすでに切除され 声を発することはできず 現在は手も震え文字盤を 指すこともかなわず 瞼の瞬きによる意思表示も 困難で 微妙な表情の変化を察知して 推察することとなります。
主のみことばを 語って寄り添う
それをこれから どのように 継続できるか お祈りしています。
Aさんの場合 「〜ができない」の「〜」の部分に 様々な言葉を あてはめることができますが
それでも 聖書のみことばを聴く耳の機能は 幸い保たれていて そのみことばを信じて平安であることを 顔の表情で 幸い表現することができます そして教会の仲間たちの顔を しっかりと見る 目の機能も 幸い保たれていて 歓迎していることを 顔の表情で 幸いにも表現することができます。
人間だれしも かなわぬ部分に目を留めるのではんく 幸いな部分に目を留めて 上を見上げて 手を携えて 前に向かって 前進させていただけるのですね。
Aさん宅訪問を通して 私たちは毎度 さまざまな気づきが与えられて 感謝しています。
あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、 上にあるものを求めなさい。 そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 地にあるものを思ってはなりません。 あなたがたのいのちは、 キリストとともに神のうちに隠されているのです。 そのときあなたがたも、 キリストとともに栄光のうちに現れます。 (新約聖書 コロサイ書3:1〜4)
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2025.08.20 |
キンギョソウ 暑さにめげず 咲いている
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玄関前に 春先に 植えた多くの花が 暑さの中で 枯れていく中 元気に咲いてくれている キンギョソウ
ジーっと見ていると アヒルさんを イメージしてしまいました。
わが家の庭に 池を作って アヒルさんを 飼いたいなあ などと思いめぐらしました。
ピンク色のくちばしの アヒルさんもいるのですね。
アヒルは 汗をかきませんが 水があれば 水浴びをして 体温を下げられ 羽毛が直射日光から 肌を守ってくれるそうで 暑さには強いそうです。
AIによれば、
「釧路でアヒルを飼うことは可能ですが、 いくつかの注意点があります。 まず、釧路は自然が豊かな地域なので、 アヒルを飼う際には環境への配慮が必要です。 また、アヒルは鳴き声が大きいため、 近隣住民への配慮も必要になります。 さらに、アヒルを飼育するには適切なスペースや設備が必要で、 餌や水、衛生管理も重要です。」 とのことでした。
特に、衛生管理が大変そうで やはり困難のようです。 特に、糞尿の臭いが激しいそうで 自分には到底無理だなあと 思いました。
どんな可愛い動物も 衛生管理が大切
私たち人間も 毎日 心から 様々な汚れが排出されるので イエス様の血潮によって 魂をきよめていただき 霊の衛生管理が 欠かせませんね〜
それでも 神様は 私たちのことを 可愛くて 仕方がないので 嫌がることなく 養ってくださるのですね。
やっぱり 主の優しさは 素晴らしい!
今日も キンギョソウのように 暑さの中でも キリストの 品格の美しさを 表す者で ありたいですね〜
流れのほとりに根を伸ばし、 暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、 日照りの年にも心配なく、 実を結ぶことをやめない。 (旧約聖書 エレミヤ書17:8)
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2025.08.19 |
十字架の 平和を語り 十キロラン
![]() ![]() 2025.8.18 久々の 10キロラン (釧路市美原は30度を超えていました。)
昨日は、午前中釧路友の会の皆さんと ZOOMでの聖書学び会
参加された皆さんが お一人お一人 婦人の友8月号の 「今日のいのり」 「地の果てまで平和と公正が満ちるように」 と言うテーマで 日本聖公会北海道教区の主教をされている 笹森田鶴さんの 文章を読んで 感想を分かち合ってくださいました。
その後、私がコメントを語らせていただくという いつものパターンでした。
戦争の原因は あくまでも 創造主なる神に背を向けた人間の 「戦う欲望」に100%の 原因が あるのであって
創造主に原因が ないことを 強調させていただきました。
創造主は 人間に自由意志を賜り 人間はその自由意志をもって 創造主に背を向ける道を選び取って しまったことが 今日の 神との断絶 人間同士の断絶 自然界との断絶などの もろもろの 原因であることを 説明させていただきました。
それと同時に 愛の創造主が 罪深い私たちの罪の責任を取って 十字架で 身代わりに刑罰を受けて 死んで蘇られたことも 強調させていただきました。
「なんで神様が愛ならば・・・?」 と言う問いよりも 「なんで神様からこれほどまでに愛されているにも 関わらず私(たち)は・・・?」という 問いが大切です。
聖書では 「平和をつくるものは幸いです。」 と教える一方で 神の介入によって究極的な平和がもたらされることを 預言しています。
創造主抜きの 「平和運動」には 限界があり 欺瞞と偽善と矛盾が 伴うことを 私自身 高校時代、クリスチャンになる前に 右翼団体から左翼団体まで含めた 多くの「平和運動家」と呼ばれる皆さんとの 交流を通して つくづく 思い知ることに なりました。 「キリストこそ私たちの平和です。」 とキリストを強調することなしの平和には 根本的な解決が ありません。
かつて小説家の故三浦綾子さんが 生前、私に語ってくださったことがあります。 「最近ね。教会の講壇から『平和』が語られることが 多いんだけど 教会の講壇からは『キリストの十字架』を語ってもらいたいの想うのよね。 『平和の話』だったら教会の外でも 巷で、どこででも聞けること 教会の中だからこそ 語ってほしいのは 『キリストの十字架』なのよね。」 この時期になると いつも その言葉を思い出します。
聖書学び会の後は 久しぶりに 美原の運動公園へ 10キロランニングに 出かけました。
気温は30度を越えていましたが 数年前に 釧路湿原マラソン大会で 7月なのに 34度を記録した ほとんど日陰のない 釧路湿原を30キロ 完走した体験が ありましたので まあ、10キロくらいならと思い 走りましたが 怒涛の如く汗が吹き出しましたが かつての様に 肌から塩が噴き出るほどには なりませんでした。
3.3キロの周回コースには 人はほとんど見られませんでしたが 若いお母さんと、小さな女の子が 自転車に乗ったり 散歩したりしていて 周回ごとに 声を掛け合うことが できて とても幸せな気持ちに なりました。
アイシングも がっちりしたせいか 膝の痛みも覚えることなく 爽快感がはんぱありませんでした。
1週間に1度は このように 汗をかいて 新陳代謝を促したいものです。
その十字架の血によって平和をもたらし、 御子によって、御子のために万物を和解させること、 すなわち、地にあるものも天にあるものも、 御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。 (新約聖書 コロサイ書1:20)
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2025.08.18 |
アスリート 走る望みが 蘇る
![]() ![]() 走る教会 アスリートチャーチの皆さん
私の左手はキム・ジングクさん 元世界陸上韓国代表選手(2011,2013) その右手が鈴木まどかさん 元トライアスロン韓国代表選手 元全国都道府県対抗女子駅伝区間賞(大会MVP) アジアジュニア選手権優勝者
将来孫と 知床登山を夢見て 体力づくりに 細々とランニング していた私でしたが
先週、知床で20代男性が 熊に襲われたことを 契機に 「孫との登山」という 夢が泡沫と化し
走る気力を 失いかけていた タイミングで 愛の神様は、 なんと世界陸上の元代表選手を お送りくださり
「それでも、走り続けるように」
叱咤激励してくださったように感じました。
日本中の教会を巡っての 神の恵みのわざのご紹介
こういう聖書の読み物が あるんだそうです。
マンガもあって読みやすいです。
アスリートたちの 体験談も挿入されています。
アスリートチャーチの皆さんは 全国を回って スポーツを 通して 神さまのすばらしさを 告げ知らせる とても尊いお働きをしています。
そのお働きが ますます祝福されますように!
私は勇敢に戦い抜き、 走るべき道のりを走り終え、 信仰を守り通しました。 (新約聖書 ?テモテ4:7)
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2025.08.17 |
炎天下 屋根の上での 汚れ取り
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この日は 教会のメンズスタッフの皆さんと 教会の子どもたちが Gキッズで 毎週利用している プレハブの外壁と屋根のペンキ塗りに 備えての汚れ落とし作業をしました。
人類の歴史の中で 最初の「塗装」は ノアの箱舟の内と外にタールを塗りなさいという 神様の命令(創世記6:14) を実行する場面ですね。
この「塗る」と言うヘブル語は 「罪を宥める」というときの 言葉と同じ言葉が使われていて 興味深いです。
イエスキリストの十字架で流された血は 私たちの罪に対する神の怒りを 宥める力があります。
ペンキを塗るには あらかじめ 洗浄した綺麗な状態でないと 効果がありませんが
イエス様の血の場合 イエス様の血そのものに
罪を洗い清めて覆う 力に満ちています。
さびた部分には コーキング作業
屋根の上は 雑巾でごしごし汚れ落としをしました。 雑巾バケツが 何度も何度も 赤茶色に染まりました。 雲一つない青空で 屋根の鉄板の上で 卵を落とせば 目玉焼きが作れそうでした。
作業後は 次週の焼肉パーティーの予行練習の 焼肉パーティー
日陰は涼しかったです。
肉の他に ほっけとか鰈とか イカとかも ありました。
イカたちが あたかも ダンスしているかのようでした。
炎天下の 雲なき日の 屋根の上の作業は さすがに 甲羅干しの 気分になりかけました。
暑い日に 屋根の上で 日々お仕事される業種の方々の ご苦労は いかばかりかと思いました。
神様に信頼する人について 聖書では 次のように 譬えられていますね〜
その人は、 水のほとりに植えられた木。 流れのほとりに根を伸ばし、 暑さが来ても暑さを知らず、 葉は茂って、 日照りの年にも心配なく、 実を結ぶことをやめない。 (旧約聖書 エレミヤ書17:8)
暑さが来ても 暑さを知らず、なんて すごいですね〜
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2025.08.16 |
ヒグマとの 距離のとりかた 見直しを
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今回、ヒグマによってお亡くなりになった
今回のヒグマの被害の背景の一つとして マスの不漁が挙げられていましたが 私たち人間と熊の距離の取り方についても 見直しが必要かもしれません。
近年は とりわけインバウンドの影響も 重なり、知床には 多くの外国人観光客が激増し 餌を投げたり 弁当や食べ物の散らかしなど 日本人観光客も含めて マナーの点で 熊を引き寄せる原因を 作っていないか 改めて反省すべき点を 反省すべきと思いました。
観光産業振興のために 熊に対する恐怖心を 煽るような広告は これまで控え目だったかもしれません。 熊の写真を載せる場合も おとなしそうな姿の写真だけでなく 牙をむいたリアルな写真なども バランスよく載せて リアルな生態のありようを 知っていただく必要があると思いました。
2度と悲惨な事故が繰り返されないように 皆で知恵を出し合ってまいりたいものです。
聖書によれば そもそも 人間と動物が このようないびつな 関係になった根本的な 原因を さかのぼると 人間の先祖アダムとエバの罪に よって全人類が堕落してしまい その結果 神との関係 人間同士の関係 自然界との関係が いずれも歪んでしまうことになったと 教えています。
イエスキリストは、 その罪を背負って十字架で 刑罰を受けて 蘇り天に昇り ふたたび来られて 新しい天と地をもたらすと 約束しています。
今から 2700年以上昔 旧約聖書の預言者イザヤは 新しい天と地の光景について 次のように描写しています。
豹は子やぎとともに伏し、 子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、 小さな子どもがこれを追って行く。 その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。 乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。 これらは害を加えず、滅ぼさない。 【主】を知ることが、 海をおおう水のように地に満ちるからである。 (旧約聖書 イザヤ書11:6〜9)
この地上では 今日、人間も、熊も含めて すべての被造物が 呻いているのですね。
イエス・キリストの 再臨によって もたらされる 新しい天と地が来ることを
神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。 被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、 ともに産みの苦しみをしています。 (新約聖書 ローマ書8:21〜22)
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2025.08.15 |
羅臼岳 十九年前 思い出し
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今朝の釧路新聞を見て 驚き、ショックで 無事を祈りました。
悲しい報道ニュース 一緒に登山に行かれた ご友人や 被害に遭われた方の ご家族のお気持ちを 考えるといたたまれない ただただ 主のお慰めがありますように 心よりお祈り申し上げます。
スプレーは効かないよう。 この画像のような 装備が必要のよう
今回の悲しい事件は 未然に防ぐことができなかったか
今まで熊の目撃情報があっただけで 登山口が封鎖されることは なかったでしょうが 今回は 単なる目撃情報ではなく 異常行動をする 熊の目撃情報が 先月下旬から SNSで 共有されていたということですから その時点(7月下旬)で 行政が速やかに 封鎖の判断をしていればと 悔やまれます。
昔から 知床連山は 熊の生息地であることは 周知の事実ではありましたが
それでも 登山道を 複数人で 明るい時間帯に 鈴をつけて 歩けば それほど心配はないと 言われたものです。 少なくとも 息子たちと 羅臼岳を登った 19年前は。
19年前の 小学生の 息子たちとの 羅臼岳登山登頂の思い出が 蘇りました。
山頂付近は 風で帽子が吹き飛ばされると聞いていたので ふもとから帽子はかぶりませんでした。
山小屋で前泊して 朝4時半に出発して 無事登頂
登頂の満足感が笑顔ににじみ出ています。
何事も努力の積み重ねが 大事であることを 学ばせてくれるのが 登山
山頂に向かって 風がビュービュー吹く中を 険しい岩肌を よじ登ります。
足元を見るのが 精一杯 木の根っこで つまずきそうに
子どもたちは 早い早い
「おおい、マッテクレイ〜」
ハイマツ林を ダダダッと降下中
雪渓では息子たちと 初めてアイゼンを使用
頂上までは めっちゃ遠く感じるので あまり遠くを見ないように しました。
息子が大好きな 高山植物の チングルマ
私が大好きな高山植物の エゾのツガザクラ
登山の醍醐味は 登頂して眺める景色だけではありません。 多くの高山植物の 美しさに出会うと 創造主の優しさに触れることができます。
無事帰還の喜びの笑顔
休憩時間を含めて 登り始めて10時間で 無事下山できました。
午前4時半出発 午後2時半下山
息子たちは ニコニコして 満足げな顔 一山登るごとに やり遂げた感が 全身に漲っているかのよう。
下山した後は ウトロの丘に登って テントを張って オホーツクの海を 息子たちと 眺めて夕食準備
息子たちと眺めた夕陽が 感動的できれいでした。
20年前と異なり 今日では 羅臼岳をはじめとして 道東の登山は どこも危険性が増してきたように 思います。
私は 孫が大きくなったら 道東の山の登山を 一緒にしたいと 願っていましたが 今回のニュースを見て 断念しなければならないようです。
これからは 山は登るものではなく 見上げるのみとなりそう
私の助けはどこから来るのか。 天地を造られたお方から。 あなたを守る方はまどろむこともない。 (旧約聖書 詩篇121:1〜3)
19年前の拙ブログ「羅臼岳登山」 再掲 ↓↓↓ http://yamagata.fukuinkan.sunnyday.jp/?eid=81143
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2025.08.14 |
夫婦愛 ほとばしるのは 辛い時
![]() ![]() 2025.8.13 結婚生活25年で 幕を閉じられた Aさんの告別式で Aさんの棺の中に お花を添えて入れておられる Aさんのご主人の姿が見えます。
今回、初めて斎場として 利用させていただいたのは 一般住宅をリフォームした 家族葬向けの斎場で 11人まで 宿泊可能だそうです。
司式者の私は 故人のAさんと そのAさんの御主人の 夫婦愛の在り方から 多くを学ばせていただきました。
夫婦愛が 試されるのは 夫婦の一方が 苦しい時、辛い時、病む時だ ということを つくづく痛感しました。
Aさんが 一般病棟から 緩和ケア病棟に移られたのは 先週の火曜日のこと
その前日 医師と看護師、 Aさんの御主人の立ち合いの元 医師がAさんに 病状について 説明して 緩和ケア病棟への 移動を勧める 場面
一般病棟に入院している 患者さんが まだ入院して間もなくて 快方へ向かっていると期待して 積極的な治療に 励もうとしている ときに、突如 呼ばれて 緩和ケア病棟へ 移ることを 勧められることは
捉え方によっては 「えっ?なんかの間違いじゃないか?」 「私はもう助からないのか。」 「私は死期が近づいているのか。」 「私はもう治らないのか。」
混乱しやすいでしょう。 そして
絶望感に打ちひしがれかねない そういう瞬間です。
Aさんは、 医師から病状がかなり重篤であることを 告げられた時に 「自業自得ね・・」 そうぽつりと 語ったそうです。
そこで間髪入れず Aさんの御主人は 目に一杯涙をためながら 語気を強めて言いました。
「自業自得なんかじゃない。」 「あんたが、悪いんじゃない。」 「あんたは、何も悪いことなんかしていないじゃないか。」 「ばちなんかじゃないよ。」 「あんたは悪くない・・」 「あんたが悪いんじゃない」
Aさんの御主人は 医師と看護師がいましたが 泣きながら、Aさんに必死に訴えました。
医師はそのご主人の言葉を聞いて 泣きだされました。
看護師も 泣きだされました。
Aさんを囲む3人がみんな 泣き出しました。
Aさんお一人は泣かずに 自分のために涙を流す3人の様子を見て ポカーンとされました。
Aさんは ご自分の感情を表現するのが とても苦手な方だそうです。
神様は そんなAさんに対して 医師と、看護師と、ご主人の涙を通して 代わりに感情を表現を 担わせてくださったか のようでした。
こういう場面で 医師と、看護師が 感情を抑えきれなくて そろって泣くなんてことは 滅多にないことです。
滅多にないことが 起こったのは Aさんご夫妻の リアルな愛の関係に接して 職業的な立場を越えて 一人の人間として 共感し合う自由を 神様が お与えくださったのだと 思います。
Aさんは すでに人工肛門(ストーマ) をつけての生活をされていて 消化器系の癌の進行も かなり進んでいる中 にありました。
緩和ケア病棟に 移った後 ご主人に 少しユーモアを込めて 尋ねたそうです。
「私の癌とストーマ どっちか、あげるよって 言ったら どっちが欲しい?」
ご主人は すかさず 「それはもちろん君の癌が欲しいよ」
その話を聴いて 私はぐっと来ました。
Aさんの ご主人は医療関係の 仕事に従事しているため 奥様の検査結果の数値を見て どれほど重篤な状態かを 先月から察知していました。
医師に対して 口頭でも言うことができるのに あえて手紙を 書かれて 「何とか妻を助けてほしい」 ことを訴えられ Aさんが食べられる品目を その手紙の中に 丁寧に明記されました。
愛する奥様のために 主治医に 手紙を書いて懇願する そういうご主人の心を思うだけで 泣けてきます。
緩和ケア病棟に 移って、もう身動きも難しい中 Aさんは、ご主人に 「自宅に帰って あなたのためにご飯作ってあげたい。」 と仰ったそうです。
苦しみの中で 今にも逝きそうな方は ともすると 自分の肉体的、精神的 社会的、霊的痛みで いっぱいいっぱいのはずです。
傍にいる人から 何かをしてもらいたいと 思ってもいいし 言ってもいいのに
Aさんの場合は 最後の最後まで 愛する夫のために 何かをしてあげたいという気持ちを 表現し続けたのです。
それは言い方を変えると
Aさんなりのご主人への 「ありがとう」のしるしの 表現だったに違いありません。
緩和ケア病棟は 一般病棟と異なり エアコンが完備されていて 涼しくて 体への負担が少ないとのことです。
Aさんは その体に負担の少ない 環境に 約1週間身を置くことができたのは Aさんのご主人が 緩和ケア病棟への 移動を懇願した故でした。
もし、重篤であることを奥さんに 伝えずに、「よくなるよ」という 偽りの希望を持たせたまま 一般病棟に居続けさせたとしたら どれほど蒸し暑さの中で 苦しい最後の日々を 送らなければならなかったことでしょう。
泣きながら「愛をもって真理を語る」 Aさんの愛の配慮には 敬服いたします。
緩和ケア病棟では 一般病棟と異なり 食事のリクエストが許されていて 自炊も可能です。
ご主人はAさんに 「何が食べたい?」 「焼き芋が食べたい」 ご主人は 即座にスーパーから 焼き芋を買ってきたそうです。
それまで「病院食の味が全くしない 私の舌はおかしいんじゃないかしら」と 嘆いていたAさんが
ご主人が差し出された サツマイモを一口食べて 「甘〜い、おいしい〜」とほほ笑んだ時 ご主人は 「やった〜!食べられる!これはいけるかも?」 そう望みを抱いたそうです。
サツマイモを食べた翌日、 「今日は何を食べたい?」 ご主人が訊くと 「サクランボが食べたい」
ご主人は 早速、市場に行ったところ ほぼ完売状態でしたが 最後の1パックだけが 残っていたそうです。
Aさんは ご主人の手からサクランボを 4つ、5つ食べて 「おいしいおいしい」 そのサクランボが Aさんにとって この地上での最後の食事 となったそうです。
ご結婚生活 一番楽しかったときのことを 質問しました。
それは お二人が最も 経済的に 困窮していた時の思い出でした。
乏しい中 二人は身を寄せ合って 微笑みながら 節約づくめの生活をしました。
乏しい中でも 少しでも一緒に楽しもうということで
子ども用のグローブと フリスビーを 買ってきて ご近所の公園で キャッチボールしたり フリスビーをして 無邪気に笑って楽しんだそうです。
「あの時は、楽しかったね。」 この地上をお暇するときが刻一刻と近づく中で そのことを二人で 振り返ることができたそうです。
夫婦にとって心に 最も深く刻み込まれる 真の幸せとは 高価なレストランで ごちそうを食べたり リゾート地で バカンスを楽しんだり 豪邸に住んだりすることではないのだなと 思いました。
こういうたぐいのものなのだなと 思いました。
Aさんのご主人は 愛する奥様との別れが近いことを 察知して 教会にお電話をくださいました。
拙ブログをご覧くださっていたことが あったそうです。
「キリスト教では 死ぬことについて どう教えているのでしょうか? これから死にゆく人に どのように接したらいいのでしょうか?」
真剣なまなざしで お尋ねくださいました。
「聖書では、死とは、体から魂が離れることであると 教えています。 その人自身の魂が消滅してしまうわけではありません。
永遠の世界があると教えています。 永遠のいのちか、永遠の滅びか
愛の神様は 私たちが、永遠のいのちに預かれるように 救い主イエスキリストを お送りくださり、イエス様が 私たちの罪を背負って身代わりに死んで 蘇ってくださり 信じる者の罪を赦し、 永遠の命、復活のからだがあることを 約束されました。・・・」
どのように接したら、と言うことについては 「寄り添うこと」と「聴くこと」の二つをお勧めしました。
この二つを実践するには 一般病棟より緩和ケア病棟の方が はるかに 環境的に整っていると思います、と お伝えしました。
ご主人はとても熱心に 聴き入ってくださり 適切なご決断を 早々にすることができたと思います。
昨日の 葬儀の中では
結婚式の時に 頻繁に引用される 聖書の言葉をあえて 式次第の聖句の一つとして 選ばせていただきました。
葬儀説教の中での引用聖句としては 異例のことかもしれませんが 基本的に 人それぞれの人生が みんなユニークであることを 考えると
人それぞれの葬儀で語られる 聖書の言葉も 当然ユニークなものと なりうるのは 自然のことかと思います。
二人の労苦には、 良い報いがあるからだ。 一人がその仲間を起こす。 倒れても起こしてくれる者のいない ひとりぼっちの人はかわいそうだ。 一人ではどうして温かくなるだろうか。 二人なら立ち向かえる。 三つ撚りの糸は簡単には切れない。 (旧約聖書 伝道者の書4:9〜12)
Aさんご夫妻は この聖書のことばを ご存じでないにも かかわらず この聖書の言葉を 見事に 体現なさっている ご夫妻のように思えました。
告別には壮絶な悲しみが伴いますが それとともに こんな素敵な ご夫妻にお会いすることができたこと について 神様に感謝しないではおられませんでした。
火葬場の火葬前室で ご遺族が お一人お一人 讃美歌のBGMの調べの中
優しくAさんの 頬に手をあてて 別れの言葉を 語り
私も 手を当てさせていただいた後 ご主人が 「すみません、 牧師さんの後に もう一度手を当ててもいいでしょうか。」 「もちろんです。どうぞ、どうぞ」
ご主人は お花に包まれた愛する奥様の お顔を 両手で挟むようにして 少し時間をかけて お顔を優しく 抱かれました。
この時間が 永遠に続いてほしいと 願ったのは 私だけではなかったと 思います。
涙腺が緩んでしょうが ありませんでした。
ご主人は この1か月間 奥様のことが心配で 食事がのどを通らず 5キロ体重が落ちていました。 そんなご主人が 火葬場の控室で 長テーブルに 私とはす向かいに座って お弁当を食べ切ることができて 「あっ久しぶりにこんなに食べることができました。」 と喜ばれていました。
葬儀が終わって いろいろな事務手続きを経てから 最愛のお連れ合いさまを失った 喪失の悲しみの 旅路が本格的に 始まると言っても 過言ではありません。
主イエスとともに そんなご主人さまに寄り添い、 心の声に耳を傾ける者の 一人となれますように。
Aさんは、この春、ご主人と Aさんの目がとっても 不可能だとわかっていることだけれども、 そのご主人の、あまりにも優しさにあふれた言葉に 覚えられたように思います。 人生が、長いとか短いとか 不要だなと思いました。 平均寿命と言う点では 私たち日本人は、あまりにも忙しすぎて 時が流れてしまうことがないように、
お亡くなりになったAさんの お誕生日は 8月15日 終戦記念日
十字架で 私たちの病を背負い、痛みを背負い、呪いを背負って 罪との戦いを終戦へと導かれた イエスキリストの 慰めがAさんと ご遺族の皆様の上に ありますように。
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2025.08.13 |
神さまの み手の中に 身をゆだね
![]() ![]() 2025.8.12
あと三日で54歳の誕生日を 迎えるはずだったAさんが 早朝ご逝去された知らせを受け取り 一瞬、面を食らった状態に 陥りました。
前日にAさんの お連れ合いさまから ご依頼を受け この日の正午にAさんの病床を お訪ねさせていただくお約束を して心身の準備をしていた ところでした。
教会の セルリーダーたちや 牧会スタッフの 皆さんにも背後での 祈りの応援を ラインで 依頼していました。
それなのにWHY?
「主よ、Aさんに まだ一度もお会いしていないのに 一度も福音を語れていないのに あなたは、なぜ・・・・」 と主にお尋ねしないではいられませんでした。
しかし間もなく
神様は、私のスケジュールの中で 働かれるお方ではなく むしろ、私は、神様のスケジュールの中で 神様がどうお働きになるかを 知って、神様の前に謙る以外の 何者でもないことを 思い知って ああ、なんて高慢な態度であったかと 恥じ悔い改めさせられました。
すべての営みは 人間の手の中にではなく 神のみ手の中にあるのですね。
1度もお会いすることが できなかったAさんですが
神様は人知を超えた 神様の方法で Aさんにお会いになられていた 可能性があることを 信じることが 大切であると思わせられました。
Aさんのお連れ合い様の ご依頼を受けて キリスト教式葬儀が 本日予定されています。 とりわけ Aさんと25年間 結婚生活を続け 苦楽を共にされてきた お連れ合い様の 上に 主イエスの慰めの御手が 添えられますように お祈りしています。
すべて時にかなって美しい。 神はまた、人の心に永遠を与えられた。 しかし人は、 神が行うみわざの始まりから終わりまでを 見極めることができない。 (旧約聖書 伝道者の書3:11)
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2025.08.12 |
緑色 永遠色の 慰めよ
![]() ![]() 2025.8.12 昨晩、降水量があったのか 地面が湿っていましたね。 胡瓜の花が ふだんよりも多く 元気よく咲いていました。
きゅうりの葉や茎の緑色は 永遠の象徴 花の黄色は 栄光に輝く天国の象徴
それゆえ きゅうりは 慰めに満ちた色で満ちています。
毎日のように葉かきをしています。 今朝はとりわけ 黄色の花が とても多く目立ちました。
このような光景となると 実を見落としやすいです。
今朝の収穫は そのまま朝食となります。
胡瓜 大葉 青梗菜 小松菜 ほうれん草 長ネギ レタス 絹さや パセリ
みんな緑色の仲間たち
今日の正午に 某病院に入院されている まだ一度もお会いしたことがない Aさんのところへ お見舞いに行き イエス・キリストが お与えくださる永遠の命に ついて分かち合わせていただき お祈りする予定でした。
そのAさんが 朝、ご逝去されたことを伺い 先ほど お祈りに伺いました。
ご遺族のご希望で キリスト教式で 葬儀を行うこととなりました。
ご遺族の皆さんには Aさんに 私が今日の正午 お伝えする予定でいた 聖書の慰めと希望を お伝えできればと 願い祈っています。
今朝、普段にも増して 胡瓜の黄色い花が 目立って多く咲いていたのは 何か、花を咲かせる創造主からの 語りかけでもあったのかもしれません・・・。
主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。 (旧約聖書 詩篇23:2)
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2025.08.11 |
歌声を もって仕える 主のしもべ
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昨日は、釧路市ご出身で 大阪の福祉施設で 働かれている 高橋めりーさんが 礼拝後に 歌とお証をしてくださいました。
めりーさんの名付け親が 私たちが毎週礼拝の 結びの部分で賛美している GOD BLESS YOUの作詞者 関根一夫牧師であることも 知って、 不思議な神様のつながりを 感慨深く思いました。
関根一夫牧師も コロナ禍のとき 私どもの教会にお招きしたことが ございました。
めりーさんの 大阪の福祉施設の中での 音楽療法士さんとしての 尊いお働きが 豊かな実を結びますように お祈りしています。
たとえピアノを弾けなくても 音楽療法士になれるとは 知りませんでした。
ピアノを弾ける人は ともすると 「私のピアノを聴いて〜」 という思いが邪魔をして 大切なメッセージが 伝わらないことがあるそうです。
なるほどと思いましたね。
大切なのは ハートなんですね。
私があなたにほめ歌を歌うとき 私の唇は高らかに歌います。 あなたが贖い出された私のたましいも。 (旧約聖書 詩篇71:23)
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2025.08.10 |
聳え咲く グラジオラスに 鼓舞されて
![]() ![]() 2025.8.10 美しいグラジオラス
教会堂での朝のお祈りを終えて 玄関から出て 横にそびえたつグラジオラスと 一本の杖が 目に入りました。
教会の花壇づくりの 奉仕者の方が この春植えてくださった 球根から 見事な花が咲き始めました。
ピンク色は「たゆまぬ努力」紫色は「情熱的な恋」 という花言葉がつけられているそうですが
明治時代に 日本に輸入されたグラジオラスの 語源は「グラディウス」という イエス様が 居られたころの ローマ帝国時代の 刀剣であったと 知って、なるほど形状が 似ていると思いました。
聖書では、神様のみことばが 「剣」に譬えられています。
今日は日曜礼拝 礼拝に来られる皆さん お一人お一人が
聖書のみ言葉という 「剣」を携えて 勇ましくイエス様を見上げながら 希望を抱いて 悪魔、悪霊と対峙し 歩めますように
イエス様が ゲッセマネの園で 捕縛されるとき
弟子の一人が剣で いきりたって 大祭司のしもべの耳を切り落とす シーンがあります。
その時に、イエス様は 耳を元通りにしながら 剣を抜いた弟子に対して 毅然と語られました。
「剣をもとに収めなさい。 剣を取る者はみな剣で滅びます。 (新約聖書 マタイの福音書26:52)
世界的ベストセラー 新渡戸稲造の名著「武士道」の 第13章に「刀 武士の魂」が ありますが これは、まさにイエス様が語られたことと 繋がっているように思います。 新渡戸稲造は キリスト者として 聖書に親しんでおりました。
武士道と聖書信仰には 相通じるところが 多々あるのは興味深いものです。
今日、天地創造の神は この世の権威者たちを 通しても一定の秩序と平和を 保たせるために それぞれの時代にふさわしい 一定程度の 「剣」を持たせていますね。
彼はあなたに益を与えるための、 神のしもべなのです。 しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。 彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。 彼は神のしもべであって、 悪を行う人には怒りをもって報います。 (新約聖書 ローマ書13:4)
キリスト者の 身に着ける武具の中で 唯一「攻撃的」な武具は 剣で、それは 誰に対して振りかざすかと言うと 目に見える人間ではなく
「あくま」でも 目に見えない、「悪魔」や悪霊といった 創造主なる神に敵対する 霊的な存在なのですね。
救いのかぶとをかぶり、 御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。 (新約聖書 エペソ6:17)
ピンクのグラジオラスの花言葉のごとく たゆまぬ努力をして 今日の聖書のみことばを 取り次ぐ備えをさせていただきます。
また聖書のみことばという「剣」は 私たちの心の思いやはかりごとを見分け 神様の前に 私たちのすべて(真実)を露わにさせる メスのようでもあります。
露わになった私たちは 堕落した自らの心の醜さを 恥じるしかない者ですが イエス・キリストを信じる者は その恥を イエス・キリストが十字架で流された血によって 覆われ赦されます。
外科医が メスをふるうのは 良からぬものを 露わにさせるためでなく
その露わになった 良からぬ部分を 徹底的に 除去して 治療するためですね。
そういう意味で 聖書のみことばという剣は 怖いものではなく 自分の心に 触れるときに 痛みを伴うけれども 癒しをもたらす この上なく ありがたいものなのですね。
今日も新しい魂が 主のみことばによって 救いに 導かれますように。
力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、 関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、 心の思いやはかりごとを見分けることができます。 神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。 この神に対して、私たちは申し開きをするのです。 (新約聖書 へブル書4:12−13)
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2025.08.09 |
立秋の 夜空に響く 虫の声
![]() ![]() 昨日は、立秋の日 釧路の桜ヶ岡の月夜 ナイトウォーキングしていて 久しぶりに涼しさを感じました。
立秋らしく 響き渡る虫の鳴き声に 秋の足跡が かすかに聴こえて くるようでした。
今日は、長崎原爆投下記念日 被爆された方々の体験談は 貴重です。
「それまで聞こえていた セミの鳴き声が 一瞬にして聴こえなくなった」という 体験談を聞くにつけ
虫の鳴き声が 聴こえてくることは 当たり前ではなくて 平和なしるしでもあるのだな と思いました。
キリストの平和が 今日、すべての人々の上に ありますように
キリストは私たち二つのものを一つにし、 ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、 こうしてキリストは、この二つをご自分において 新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、 十字架によって神と和解させ、 敵意を十字架によって滅ぼされました。
遠くにいたあなたがたに平和を、 また近くにいた人々にも平和を、 福音として伝えられました。 (新約聖書 エペソ書2:14)
年齢とともに 体力は衰えていきますが 虫の音のように か細かろうとも 平和の福音を精一杯 響かせていただきたいと 願ってやみません
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2025.08.08 |
B5判 軽四もみな JIS規格
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日本独自のB5版規格!
教会で一生懸命 礼拝メッセージを ノートに記入しているAさん ノートの表紙を見ると 同じでした。 ただ細かく見ると行数は異なりましたが。
同じものを持っている人を見ると 嬉しくなる心理は、 「類似性の法則」と 「内集団びいき」という心理学的なメカニズム によって説明できるそうです。
人は自分と共通点を持つ人に対して、 安心感や親近感を抱き、 好意的に感じる傾向があるんだそうです。
このため、同じものを持っている人を見ると、 自分と共通の価値観や趣味を持っていると感じ、 嬉しくなるのだそうです。
ところで大学ノートは いつのころからか キャンパスノートとも 呼ばれるように なりましたが もともと 明治時代に東京大学の近くの 文具店「松屋」で売られたもの だったようですね。
「大学生が使うノート」というところから 大学ノートと 我々の世代は呼んできました。
やがて関西で仕事をしていた 富山県出身の 黒田善太郎氏が 着目して 商品化していくわけですが
黒田氏は 故郷富山にあやかり 国の誉れとなる企業となるべく 「国の誉れ=コクヨ」という 会社名をつけたそうです。
善太郎さんが没後 それまで、糸綴りだった大学ノートの 不便さを解消すべく 無線綴じの大学ノートを 世界初開発しました!
それが コクヨのキャンパスノートB5判として 今日まで 普及することとなります。
今でこそ 当たり前の無線綴じノート コクヨ以外の会社も この方法で ノート作成しています。
かつては 糸みたいなもので綴じたノートを 小中学生の頃 使っていて、 書き損じたページを 除くと糸がほどけて バラバラ事件となり 悲惨な目に遭った 記憶を 私たちの世代の方々は 多かれ少なかれ もっていますよね。
それが いつのころからか 破っても、破っても ノートの他のページが不思議と ぱらぱら 外れなくなったのは 1975年からなのですね。 私が13歳ごろからか〜。
日本人の事務用品の発明は 多々あるようですね。
すごいなあ、ありがたいなあと 思いました。
大切に大学ノート(キャンパスノート) を使いたいものです。
ちなみに このキャンパスノートと呼ばれるようになった 大学ノートは 日本だけに通用するB5サイズであるのは なぜだろうと 思いました。
世界標準はA4なのに・・・。
コピー用紙や PCの印刷用紙はA4で 使い分けで たまに不便さを感じることがあります。
それは、日本の学校の机のサイズに合わせ ノートを開いても 学習しやすいようにということだったようで なるほどと思いました。
世界に何でもかんでも 合わせる必要はないと つくづく思いました。
グローバルスタンダードに 合わない部分があるのは 合わない理由があるのですね。
今回はAさんと同じ大学ノートを 使っているということから 大学ノートについて あれこれと考察をしてみました。
B5ノートのみならず 軽四自動車も日本規格ですね。
軽自動車は日本独自の規格であり、 基本的に日本でしか販売されていません。 海外では軽自動車という概念自体が そもそも存在しないことを 最近まで知りませんでした。 てっきり世界中に軽四車が 走っているものだとばかり 思っていました。
米国車の 輸入は、非現実的ですね。 日本にはそもそも とても合いません。 サイズ的にも 性能的にも そもそも左右ハンドルの違いもあり。
(立体)駐車場から 車庫から 何から何まで 合いません。
日本の規格は 日本人として しっかりと 堅持していけるといいですね。
今日、日本経済の仕組みが ゆがめられている一つの原因が 世界のグローバル企業の 日本への無秩序な浸透 これをサイレント・インベージョン (沈黙の浸入)とも 呼ぶそうですが 神様が備えた 経済的「地境」=境界線を大切にしたいものですね。
聖書では「地境」を尊重することの大切さを 旧約聖書の時代から すでに強調しているように思えます。
あなたの神、 【主】があなたに与えて所有させようとしておられる地、 すなわち、あなたの受け継ぐ相続地で、 あなたは先代の人々が定めた隣人との地境を 移してはならない。 (旧約聖書 申命記19:14)
世界宣教(国境を越えた宣教)は大切ですが グローバリズム(国境を越えた自由経済)は 貧困層をさらに増やし 貧富の差を増大させ 弱肉強食の世界を 構築させていきます。 過去の歴史上の「植民地拡大」や「プランテーション」 の繰り返しのようで 注意が必要と考えます。
Aさんと同じ大学ノートのB5判 から色々考えさせられました。
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2025.08.07 |
扇風機 心地よい風 研修会
![]() ![]() 昨日は、釧路市合同庁舎の4階で 釧路保護司会の 地域別定例研修会がありました。
開始5分前に到着し ほとんど座席が埋め尽くされていて 最後尾の端っこが幸い 空いていましたので 座り、心地よい風に気づいて 後ろを振り向くと 扇風機がそばに置いてありました。
お隣に座っていた 釧路町分区の保護司さんと 「前方のスクリーンの字は 小さくてさっぱり見えませんけど 扇風機のそばに座れて幸いですね。」
と笑顔でご挨拶。
その女性保護司さんは、 私に頭を下げ下げ 「すみません。私、30分したら 行かなきゃいけなくて・・・」
なんて、丁寧で誠実な方だろうと 恐縮しました。 私に、謝罪する必要なんてないのに・・・
「とんでも、ございません。 暑い日で、大変でしょうし、 お忙しい時期でもありますし どうぞ、どうぞ」
すると 「ありがとうございます。」と 返してくださったものですから 余計恐縮してしまいました。
私に、感謝する必要もないのに・・・
この保護司さんとは、初対面です。 初対面の方なら その人に断りなく すっと離れても 差し支えないとも思うのですが。
何気ない会話でしたが 初めてお会いする方から 謝罪される必要もないのに 謝罪され 感謝される必要もないのに 感謝される なんということだろうと思いました。
はからずも この日は、広島原爆投下記念日
80年たっても、原爆投下した米国からは いまだに公式に謝罪されていないよなあ とりわけ「殺してはいけない」という聖書の言葉に 触れている クリスチャンが多いはずの国なのに・・・ 釈然としないよなあ、という 思いが午前中 頭の中を何度も去来していましたが、
あの国、この国 あの人、この人と言う前に それじゃあ、自分自身については、 どうだろうと思いました。
果たして 謝罪すべき人に謝罪しきっているだろうか 感謝すべき人に感謝しきっているだろうか
お隣に座った保護司さんの 誠実な態度に接して はっとさせられました。
「この人は、神様が 私の心の目を覚ますために 30分間送ってくれたみ使いじゃないか」 とさえ思いました。
イエス・キリスト 人類の救い主は 全く罪を犯さなかったにもかかわらず 私たちの罪の刑罰を身代わりに すべて背負って 十字架にかかられ
天の父に向かって 謝罪する必要もないのに 代わりに謝罪してくださり とりなしてくださいました。
嗚呼、なんというキリストの 無償の愛でしょう。
この日の研修内容は 「専門的処遇プログラム」 について
保護観察官からの 丁寧な説明がなされました。
犯罪傾向別に 認知行動療法に基づいて ・性犯罪・薬物・暴力・飲酒運転 の4分野について どのようなプログラムが 更生保護法によって 展開されているか 簡潔にその概要が 説明されました。
研修後の質疑応答コーナーでは
誰も手を挙げないと せっかく一生懸命準備された観察官の方に 申し訳ないという思いと
せっかくここまで研修にやってきて ただ聴いて、黙って帰るというのも もったいないという思いと
アウトプットはインプットに まさるという思いと
純粋に訊きたいという思いで
最後尾に座っていましたが挙手して 4つの質問をさせていただきました。
1.矯正施設内で行っている 専門的処遇プログラムとの差異について
2.4つのプログラムの中で 観察官の方が実践されてみて 最も実効性があって 手ごたえを感じたのは?
3.性犯罪対象プログラムが 現在「男性」のみに適用されているが 「女性」も対象にならないのか?
4.2種類の薬物の簡易検査(尿と唾液) の実効性について
とても丁寧なご回答をいただけて 感謝でした。
観察官と保護司の 信頼関係と パートナーシップが 釧路においては 良く確立されていると思い 感謝しています。
「認知行動療法」の中で 「認知の歪みを変える」ことは 言うのは簡単ですが 実際はなかなか困難も多いだろうな と思いました。
この前日、釧路刑務支所の宗教教誨で 被収容者Aさんと 集合教誨と個人教誨 合わせて2時間、 教誨室の カーペットの上に 二人で胡坐をかいて じっくりお話を伺う機会がありました。
Aさんは 日本国内のいくつかの 矯正施設で 様々な犯罪傾向を持つ方々と 交流してきた感想なども 語ってくださいました。
ある施設では 性犯罪で 無期懲役になった方が 「俺は、出所したら、また同じことをする。」 そうAさんに向かって 語られたそうです。
Aさんが、 「20年以上も懲役してせっかく出所できるのに、 どうして『また』なんですか?」 とお尋ねしたそうです。
すると、真顔で 「相手は、本当に喜んでいたんだ」と 答えたそうで、Aさんはその答えを聞いて ひどく驚いたそうです。
釧路刑務支所のように 初犯対象の矯正施設には 様々な犯罪傾向(薬物、窃盗、殺人、性犯罪など)の方々が 入所されていて お互いの犯罪内容については 話さないことになっています。
刑務官は守秘義務があり 公にしてはいけないことが 法令で義務付けられています。
しかし実際は、 ほのめかす表現がなされる 事例もあるようです。
矯正施設内の受刑者の間で 「性犯罪」を犯した人に対しては 他の犯罪を犯した人から 「あいつはピンクらしい」と ささやかれ 差別的な目で見られがちだそうです。
すべての人間が 神の前で罪びとであるので どこのコミュニティでも 差別があるんだなあと 改めて思いました。
認知行動療法はある一定の 効果はあるものの 「歪んだ認知構造」 を本人が認識するには 忍耐深くかかわる理解者と 寄り添う者が必要だなあと 思いました。
そもそも なぜそのように認知が 「歪んでしまっているのか」という 歪みの原因というか 根を見つめ その根と向き合うことがないと なかなか根本的な解決は難しいかなと 思いました。
私たち一人一人の 心の歪み 認知の歪みの 根に触れてくださるのは 人知を超えた 真理に満ちた 忍耐深く寄り添う慰め主なる 聖霊なる神様
聖霊によって歩む「真の心地よさ」 を味わった人は もはや 性犯罪、薬物、暴力、飲酒によって得る 「偽りの心地よさ」に 魅力を感じなくなることでしょう。
御霊によって歩みなさい。 そうすれば、 肉の欲望を満たすことは決してありません。 (新約聖書 ガラテヤ5:16)
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2025.08.06 |
大雨で 釧路市街地 水浸し
![]() ![]() 昨日の朝は、釧路市に大雨が降り 他の地域にお住まいの方から 「大丈夫?」 案じる連絡が来るほどでした。 先週の津波警報に続いて・・・。
同じ釧路市でも、 私どもの教会堂や 自宅が位置する桜ヶ岡7丁目は 車両が水没するほどにはなりませんでした。
そもそも大雨洪水警報が発令されても サイレンが鳴るわけでもないので 発令が出たこと自体 私を含め テレビラジオネットをまめに ご覧になっていない 大多数の市民は ご存じなかったのではないかと 思います。
私などは 「今日は雨が強いな」 「よし、ワークマンで廉価で購入した レインコートの防水機能ぶりを確認できるぞ」 とワクワクしながら レインコート上下を着こんで 資源ごみを出しに行ったり 教会堂に朝の聖書とお祈りの時をもつために ふだん通りに過ごしていました。
幸いだったのは、 妻がパート休みで 北大通に行かなかったことです。 もしパート勤務日でしたら 間違いなく、時間帯的、 地理的にも 妻の軽四は 冠水していたことでしょう。
先週の津波警報のときも 妻はパート休みで 北大通へ行かずに 避難対象者とならずに済みました。
釧路市民の中で 昨日の大雨による人的な被害は 今のところ報告されていないことは 幸いでした。
大雨を 冠水を体験した釧路ですが 全国を見渡すと 灌水 昨日の朝は、釧路市に大雨が降り
他の地域にお住まいの方から
「大丈夫?」
案じる連絡が来るほどでした。
先週の津波警報に続いて・・・。
同じ釧路市でも、
私どもの教会堂や
自宅が位置する桜ヶ岡7丁目は
車両が水没するほどにはなりませんでした。
そもそも大雨洪水警報が発令されても
サイレンが鳴るわけでもないので
発令が出たこと自体
私を含め
テレビラジオネットをまめに
ご覧になっていない
大多数の市民は
ご存じなかったのではないかと
思います。
私などは
「今日は雨が強いな」
「よし、ワークマンで廉価で購入した
レインコートの防水機能ぶりを確認できるぞ」
とワクワクしながら
レインコート上下を着こんで
資源ごみを出しに行ったり
教会堂に朝の聖書とお祈りの時をもつために
ふだん通りに過ごしていました。
幸いだったのは、
妻がパート休みで
北大通に行かなかったことです。
もしパート勤務日でしたら
間違いなく、時間帯的、
地理的にも
妻の軽四は
冠水していたことでしょう。
先週の津波警報のときも
妻はパート休みで
北大通へ行かずに
避難対象者とならずに済みました。
「冠水」を経験した釧路でしたが
今、全国各地で
「渇水」で深刻な状況の地域の方々へ
冠水の水を「灌水」し、田畑に「潅水」できたら
と思いました。
何はともあれ
釧路市民の中で
昨日の大雨による人的な被害は
今のところ報告されていないことは
幸いでした。
大雨を
冠水を体験した釧路ですが
全国を見渡すと
灌水
昨日の午後7時のニュースでも 釧路の大雨が報じられました。
報じたアナウンサーは かつて、札幌支局ご在籍中 釧路に取材で来られ、取材後 私どもの教会の日曜礼拝の夕礼拝に ご出席されました。 その時は どなたか存じ上げませんでしたが クリスチャンであるということでしたので 「それでは、せっかくおいでくださったので お祈りをしていただいてよろしいですか?」 とお願いしました。
お祈りの後 私も含めて 「どこかで聴いたことがある声ですね〜。」 私のみならず 他の人たちも同じように思ったようです。 礼拝後に どこのどなたかを伺い 「そうだったんだ〜」 と皆で合点がいったという エピソードを思い出します。
昨日の報道中 一瞬でも 釧路の私どもの教会で 一緒に イエス様を礼拝した思い出が 蘇ったかな〜などと 思いめぐらしていました。
ところで 昨日の雨量について 釧路新聞でもNHKでも 「観測史上最大」と言う言葉が 使われていました。
「最多の方がしっくりいくような気がするなあ」と思い 調べてみると 長期間の雨量については「最多」 短時間の雨量については「最大」と 使い分けるそうで 日本語は難しいと思いました。
そもそも 「雨が多い」とは言っても 「雨は大きい」とは言わないですよね。
「ご飯の量が多い」 「音量が大きい」
ううむなかなか難しい
個人的には 短時間であっても 「観測史上最多の雨」の方が ピンときやすいなあ。
雨が沢山降ったおかげで わが家の庭のキュウリが喜んでいます。
ご近所のお一人暮らしのご高齢の方に おすそ分けさせていただいています。
わが家では ここ数日 毎朝、毎夕 キュウリを食べています。
聖書では 苦難の時に 神様が 大雨のように 来てくださると 譬えています。
大雨洪水警報は 気づく人も 気づけない人も いますが 大雨そのものは 誰もが気づくことができます。
苦しみ悩み悲しみ 痛むすべての人が 「気づける」かたちで イエス様は 助けに、救いに、慰めに おいでくださる それが聖書の約束です。
これは「けいほう」は「けいほう」でも 「大雨恵報」!
私たちは知ろう。 主を知ることを切に追い求めよう。 主は暁のように確かに現れ、 大雨のように私たちのところに来られる。 地を潤す、後の雨のように。 (旧約聖書 ホセア書6:3)
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2025.08.05 |
「我が子膝」 天父の愛が あふれ出る!
![]() ![]() 橙色の服が似合う孫
埼玉県に住む長男が 孫を抱きながら 聖書メッセージを準備中
子どもが膝の上に乗ってきたり、 膝を抱っこしてほしいとせがむ様子を 「我が子膝」と表現するそうです。
この写真を見ながら
かつて自分と長男との似たような写真が あったなあと 膨大な写真の中から さっそく、捜索開始・・
ミーつけた!これ!これ! 長男も橙色が似合っていたなあ。
橙色が似合うのは 代々続くのかしら〜
幼いころから 自分を母親の胎内で 創造された愛の神様のことばである 聖書に親しめるように・・・
そのためには 親自身が心底、 聖書に親しんでいることが 大事なんでしょうな。
伝統的なユダヤ人家庭では 幼子にアルファベット型のビスケットを 食べさせ 文字に親しんで 聖書の言葉を読む準備を させるそうですね。
聖書は神様からのラブレター!
来週は、長男の誕生日なので わが家恒例の家族一人一人の メッセージが詰まった カードを作成 昨日、配送しました。
長男坊は小学2年のときに 自分の意志で バプテスマ(洗礼)を受けたいと願って 受けました。
そして小学校中学年ごろ 家族で糠平ヘスキーに行って 帰宅してへとへとになっていた時 突然、「おとうさん、パソコンの打ち方教えて!」 と言って A4版の上質紙に 自分で 「天国への行き方」 という文書を作り始めました。 文面は長男が考えました。
普段、私が しゃべっていることなどを 長男なりにまとめたものです。
そしてプリントアウトし 「お父さん、これ印刷して!」 と頼み、印刷しました。
そして二男坊と一緒に 長男は、雪降る中 ご近所一件一件 訪ね、呼び鈴を鳴らし 手渡ししました。
驚いたことは 同じ町内に住んでいた 小学校の校長先生宅にも 訪ねて行って 呼び鈴を鳴らして 堂々と 「校長先生!、これ、読んでください。」 と大胆に伝道したことです。 その校長先生は 大学教授でもありました。
イエス様の愛に感動し 聖霊に満たされると 年齢を越えて 羞恥心とか吹き飛んで 誰にでも(相手が大学教授であろうと校長先生であろうと) イエス様のことを 伝えないではいられなくなるのだなあと 思いました。
私の方が、驚いた出来事でした。 そして長男と次男を心底リスペクト しつつ、神をあがめました。
そんなことなど思い出しつつ その息子が成長を遂げ 我が子を抱く父親となったことを 感慨深く思うばかりです。
長男が 孫を膝に乗せている 写真を見ながら
孫の魂にも キリストの愛に感動して 「伝えずにはいられない」 パッションが 伝承されていけたらと 願っています。
長男坊は高校時代 軽音でドラムをたたいていましたが 大学時代は 札幌で集っていた教会の礼拝等で ギターを 弾かせていただいていました。
その教会の若者たちのYOUTUBE 動画が公開されていますが 私もたびたび観て聴いて励まされています。 皆様にもお聞きいただき 励ましをシェアできると幸いです。
力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。 あなたが家で座っているときも道を歩くときも、 寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。 (旧約聖書 申命記6:5〜7)
そうすれば、年老いても、それから離れない。 (旧約聖書 箴言22:6)
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2025.08.04 |
扇風機 回して分かつ 神の風
![]() ![]() 2025.8.3 札幌から 帰省されたAさんご家族 Aさんの札幌の住宅には エアコンも扇風機も おありだそうです。 「そりゃ、良かったね〜」
日曜礼拝に 故郷を釧路に持つ方々も 集われて 楽しいひとときを過ごすことが できました。
特に お孫さんたちの成長は 目覚ましいものがありますね。
この日の釧路の気温は 高く、エアコンのない 会堂内のあちこちに ご自宅から 持参した扇風機をあちこちに 配置して 風をシェアし合っていました。
先週 大阪から来られた牧師さんは ふだん エアコンの効いた礼拝堂で 「寒く感じる状態」で礼拝をささげているので エアコンのない 釧路の教会堂内の 暑さに、ややしんどそうでした。
真夏の釧路の教会堂内の あちこちに扇風機を 置いて できるだけ 風が色々な角度から 吹くように
私も自宅の執務室の扇風機を携えてまいりましたら あまりたくさん置くと ブレーカーが落ちるのではないかと 心配です。 と言われ 別室へと移動しました。
これほど扇風機を 会堂内のあちこちに置いたのは 私どもの教会堂が建てられて 40年以上たちますが 初めてのことです。
三位一体の神様の 第三位格にあたる 聖霊なる神は 「風」にたとえられています。
ご聖霊の風は 思いのまま吹いてくると 聖書にあります。
優しく、涼しく 教会の内外に 吹いてくださって その風を受ける者は 誰でも魂を生き返らされ 心地よさを覚えることができ 元気が回復できます。
そんな聖霊様の 風が 猛暑で苦しんでおられる すべての方々の頬を 優しくなでるように 吹いてくださいますように
その音を聞いても、それがどこから来て どこへ行くのか分かりません。 御霊によって生まれた者もみな、 それと同じです。」 (新約聖書 ヨハネの福音書3:8)
みなさまの1日ワンクリックは |
2025.08.03 |
イチゴの実 イノチの木の実 憧れて
![]() ![]() 一株の「四季なりイチゴ」を 栽培していますが 小さいながらも 多くの実をつけてくれています。
子株、孫株を成長させたいと 思いながらも またリン酸の肥料をもっとあげなければ そう思いながらも なかなか手つかずの状態です。 実が可愛いので 観賞用となってしまっています。
一期なりのいちごが 春に一回だけの収穫なのに対して 四季なりいちごは 春から秋まで 繰り返し収穫できるんだそうです。
今朝の聖書通読が 新約聖書ヨハネの黙示録でした。
やがて来るべき新しい天と地の光景が 象徴的に描かれている箇所ですが 永遠のいのちが 溢れる様子が とても美しく描かれています。
人間はもともと 永遠のいのちあふれる神様に 似せて造られたので 永遠に生きるはずでしたのに 私たちの先祖アダム以来の罪が 全世界に広がり すべての人間が死ぬべき存在 となってしまいました。
もし死んで無になるのであれば 人生空しいことになりますが
聖書では 死んでも 永遠の世界(天国が地獄か) があると教えています。
聖にして愛の神は 一人の人間も 滅びることがないように 神自ら わたしたち人間の罪の責任を 引き受けて 身代わりに刑罰を受けるべく 人間の姿をとって十字架にかかられて 死んで三日後によみがえりました。
それが人類の救い主イエス・キリストです。
イエス様を信じるだけで 誰でも どんな罪を犯した人でも 主イエスが流された血に免じて ゆるされて 神の子どもとしての特権が 与えられ、 たとえ肉体は朽ちても 魂は 主イエスの元へと移されて 永遠に憩うことができます。
8月はあちこちで 戦没者の慰霊祭などが 行われます。
教会では 今から約1995年前に 十字架で死んで週の初めに復活し 今も生きておられる方のことを 毎週日曜日に「日曜礼拝」という形で 覚えて礼拝をささげます。
この方は 欧米の神ではなく 日本人も含めて 全人類の唯一の神です。
ご先祖さんはありがたいですが ご先祖さんを創造された神それが イエスキリストです。
ご先祖は敬うべき尊い対象 ご先祖を造られたイエスキリストは 礼拝すべき尊い対象です。
いのちの水の川を私に見せた。 川は神と子羊の御座から出て、
こちら側にも、あちら側にも、 十二の実をならせるいのちの木があって、 毎月一つの実を結んでいた。 その木の葉は諸国の民を癒やした。 (新約聖書 ヨハネの黙示録22:1〜2)
イチゴと言えば 茶道で有名な千利休の「一期一会」を 思い出します。
「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、 一期ニ一度ノ会ノヤウニ、 亭主ヲ敬ヒ畏(かしこまる)ベシ」 このように語ったと千利休のお弟子さんが 記しております。
この地上の人生で 二度と繰り返されることのない素敵な出会いを 賜る神さまを 思いながら 今日、出会う方々と過ごす時を 大切にできますように。
みなさまの1日ワンクリックは |
2025.08.02 |
釧路市の 緑といのち 大切に!
![]() ![]()
早朝、庭で採れた葉野菜を 朝食にいただきました。
写真左手は青梗菜 これは炒めてごま油でいただきました。
真ん中はほうれん草 これはおひたしにして 鰹節をかけて醤油を数滴 注いでいただきました。
右側は小松菜 これは バナナとメロンとヨーグルトを 混ぜたスムージーとして 残りは生の状態で 味噌汁の具としていただきました。
実際に家庭の庭で これらの葉野菜を栽培するまでは これらの葉っぱだけ見ただけでは 種類の区別がつきませんでした。
この年齢になってようやく 葉野菜の区別が 少しずつつくようになって まいりました。
「葉っぱの違い」について 思いめぐらしていた時に 葉は葉でも「言葉」の違いに思いを はせてみました。
人間だけが言「葉」でコミュニケーションを とるわけですが その言葉によって 励まされて慰められることもあれば 逆に傷つくなんてこともあるわけですね。 話し言「葉」のみならず 書き言「葉」も
上の写真の3つの「葉」でいうと ほうれん草の形状には とがった部分が ありますが 小松菜や青梗菜は丸みを 帯びていますね。
人に言「葉」を発する場合 丸みを帯びた言「葉」を使いたいですが しかし時には 鋭い言「葉」が必要なときもあるかもしれません。
1970年に「日本死の臨床研究会」の第37回年次大会の 主題が「いのちをつなぐ」となりました。
ある精神科医師が大会長さんに 「どうして『命』でなくて『いのち』なのですか」 とお尋ねすると 「漢字の『命』よりも『いのち』としたほうが丸くなるからね。」 という返答があり 「丸くなる。なるほどな」 と思った、というお話を思い出しました。
その話を思い出しながら 改めて上の三つの葉っぱを見ると ほうれん草は「命」の形状に 青梗菜と小松菜は「いのち」の形状に 似ているかな
葉っぱは 種類の違いはあれ みんな、創造主が 私たちを愛するために創造された 葉っぱなのですね。
感謝しています。
葉っぱは緑色
今、釧路湿原の緑色が メガソーラーによって浸食されている現状を 釧路市民のみならず 日本国の多くの人が 報道やネット情報で知らされ 憂いています。
脳科学者として有名なA先生が 「人工物に装着する太陽光パネルならまだしも 緑を削る太陽光パネルは、エコでも何でもない」 とコメントされ、そのとおりだなあ、と思いました。
「自然とメガソーラーの調和」という 文章そのものに違和感を 覚えます。
「自然」はそもそも「メガソーラー」 を必要としていないからです。
「メガソーラー」の寿命は短く 廃棄費用は膨大で それを必要としているのは 一般庶民ではなく 固定買取制度によって 利潤を得るごく一部の業者と 言われています。
一般国民の多くは 再エネ賦課金という名目で 毎月の電気代として メガソーラーの費用を 負担しているという事実を 知らないでいるのではないでしょうか。 私も恥ずかしながら数カ月前まで 「再エネ賦課金」という言葉そのものを 知りませんでした。
さらに、 ソーラーパネルの製造の大部分は某国製で 某国で抑圧されている少数部族が 劣悪な環境で 働かされて この製造にあたっていることを 知らされて驚きました。
こういうことを 知らされると メガソーラーそのものが 廃止されてほしいと願います。
私はランニングが好きですが ランニングシューズは なるべく日本製と決めています。
それは日本製が最も 私の足にフィットするし 多少値段が高くても 安心感と信頼感があります。
数年前 誰もが知っている 某国ブランドの シューズを製造している 東南アジアのB国の 工場についての ドキュメンタリー映像が ネットで公開され愕然としました。
現地の貧困層の方々が きわめて過酷な条件下で 低賃金で働かされ 呻く姿が流れていました。 (フェイク動画ではないと思います。)
それ以来、そのブランドのシューズは たとえ高品質で 低価格であっても 購入する気持ちが 沸き起こりません。
そのブランド名を聞くだけで あのB国の労働者たちの 呻きが聞こえ惨状が見えてくるようで いたたまりません。
かつて 社会科教師として 歴史の授業で プランテーションについて 中学生たちに教えた ことがありましたが
過去の出来事のように 扱ってしまったかもしれません。
今日も形を変えた プランテーションが スポーツシューズの製造や ソーラーパネルの製造の 背後で行われているように 思えてなりません。
昨日、くしろ市議会だよりが 釧路市の各戸に配布されたと思いますが 4ページ下段の内容に釘付けになりました。
「トランプ関税」に対して国内農業を守る意見書 (提出先:衆議院・参議院議長、内閣総理大臣ほか4大臣)が 賛成多数で可決されましたが 審議で賛成しなかった会派が 最大会派を含め 複数あったことに 驚きました。
さらに驚いたのは 「非FIT太陽光発電施設に対する積み立て義務化の 管理手法を質権設定契約として 条例に早急に盛り込むことを求める件の請願」が 審議の結果、採択はされたものの ここでも最大会派が 不採択を選択されたとのことです。
同様に驚いたのは 「10キロワット以上のすべてのメガソーラー施設に対する 積み立て義務化の管理手法を質権設定契約とし条例に 早急に盛り込むことを求める件の請願」についても 審議結果、採択はされたものの 同様に、最大会派が 不採択を選択されたとのことです。
以上、1つの意見書2つの請願は いずれも大多数の釧路市民の民意を 反映するものばかりと 推測するのですが 最大会派がそれとは異なる選択を している理由について 私を含め、多くの釧路市民は知りたいと願っていると 思います。
創造主が 釧路に賜る自然が、 緑が、いのちが 守られますように!
聖書では 「緑」色は永遠をさししめす シンボルカラーです。 クリスマスカラーの緑は イエスキリストを信じる者が 罪赦されて 受け取る永遠のいのちを 象徴する 常緑樹の緑を象徴しています。
緑を削ることは 命(いのち)を削ること
緑をはぐくむことは 命(いのち)をはぐくむこと
また、生きるいのちのある、 地のすべての獣、空のすべての鳥、 地の上を這うすべてのもののために、 すべての緑の草を食物として与える。」 すると、そのようになった。 (旧約聖書 創世記1:30)
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